カンボジア小学校建設10年後。 2016年3月5日
プノンペンの空港から車を北西に3時間30分ほど走らせると、僕たちがお手伝いさせてもらっているコンポントム州ストーン群ベン村にあるGRPAPHIS小学校に着いた。
2005年、大学2年生の時に、渋谷の郵便局でパンフレットを見た。
「150万あればカンボジアに小学校が建てる事ができます。」
と書いてあった。
小学校を建てようと思った時に、一つだけ決めていた事がある。建設した後、最低10年ぐらいはカンボジアに通おうと決めていた。
きっと、建設の時は魅力的で色々物事がうまく運びやすい、でも建設後の継続支援はきっと、手伝って頂ける人が減るだろう。それはおそらく仕方ない事で、やると言った上、誰かが責任を取らなきゃいけない。
ハードな支援と比べて、ソフトな支援や継続支援は、成果が見えずらく、一見あんまり、面白くない事かもしれないけれど、実は一番大事だ。
当時からいっていたけれど、ハコモノ支援だという人がいた。時間が経てば、なんだか賞賛も批判もこなくなった。
小学校建設後、実際は、自分の予想に反して、学生団体Michiiiを中心に、たくさんの方が協力してくれた。
2016年3月の時点では、小学校の生徒220人、教員6人(2人は派遣)、中学校の生徒280人、教員11人の体制で、子供たちが通ってくれている。卒業生は3000人を超えた。
2013年2月には、乾季にトイレや手洗い等の生活用水が不足するためにため池を設置し、2015年9月には電気供給のために工事を行い、勉強についてこれない子供たちが、夕方でも塾の様の形で、学校で勉強できる様になった。2017年2月 には、子供たちのグランド整備、2017年7月には、生徒数増加に伴い、校舎不足のため、授業数が減る現状があったため、教室増築のお手伝いを行った。
また2011年より継続して、手洗い、ゴミの捨て方、歯磨きの仕方などを教える衛生教育を行い、統計学的に有意差をもって、調べた訳ではないけれど、当初はゴミで荒れ放題だった小学校もゴミ箱が設置され、統計的に有意差をとった訳ではないけれど、手を洗う子供たちを頻繁に見かける事になった。
プノンペンの空港から小学校に到着すると、BENG村の村長と校長が出迎えてくれた。学校の子供たちは、10年も通うものだから、もはや珍しくない様子で、仰々しい出迎えはなくなった。
10年も経過すると、ある子供たちは大人になる。ここを卒業していって、子供たちが大人になって健康に暮らしている姿を時々みると、大げさだけど、生きていて良かったなと思う瞬間が時々ある。こんな自分でも少しだけ役に立てたのかなと思うことがある、文字にすれば、なんだか嘘っぽいけれど。
村長と校長に挨拶をして、村と小学校の現状をヒアリングするために、ベンチに腰かけた。
僕から、「何か、小学校か、村でありましたか?」
となんだか抽象的で申し訳ない質問を聞くと
中背でもムキムキな村長から
「赤ちゃんがまた、亡くなりました。」
どう反応するか考えるよりも前に、
「そうですか。大変でしたね・・・」
良く言えば冷静に、悪く言えば、何も考えずに答えた。
「コウタさんが、この前会った、お母さんも会いたがってましたよ。」と村長がいうと
数秒かなんと答えようか考えた後
「お母さんともう一度会えますか?」
と僕から聞き直した。
「会えると思います」
村長は、そう言うと、ポケットから携帯を取り出し、赤ちゃんを亡くしたお母さんの親族に電話をかけた。
クメール語で電話越しに誰かと数分話しと後、村長が口を開いた。
「丁度、今家にいる様です。会いにいきますか?」
「はい。」
今度は反射的に、短く答え
村長と通訳のブティさんと、車に乗り込み、1年以上前に出会った、赤ちゃんを亡くしたお母さんにもう一度会うために、彼女の家を目指した。
生後28日未満の赤ちゃんは新生児と言われ、その中でも、生命の危険が特に高いため生後7日未満を早期新生児とも言われる。また、早期新生児期と妊娠後期(28週以降)を合わせた時期が「周産期」と言われる。
まとめ:続ければ、見える素敵な景色がある。
GRAPHIS小学校の継続支援を行っている学生国際協力団大Michiiiiはこちら↓
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映画化以降の8年間の苦悩、悔しさ、涙、仲間の大切さ、出会い、自分の幸せ、収入やキャリア、夢や目標の叶え方、なぜ僕たちは働いているのか?色々なものを詰め込みました。
NPO法人あおぞらを通じて、印税をタンザニア新病院プロジェクト、ラオスの新生児蘇生法講習会、カンボジアのサンブール保健センター継続支援、グラフィス小学校栄養指導、検診活動等に使わせていただきます。