日清カップラーメンと、スーダンの夜空 2015年3月10日
日清カップラーメン。 2015年3月10日
スーダンは、イギリスの植民地時代を経て、1956年に独立したが、南を中心に内戦が続き、1980年代に、飢餓も発生し、地域全体の住民が栄養失調に陥る事もあった。
栄養不足で、うずくまった子供を獲物として、ねらうハゲワシを撮影した、ハゲワシと少女が撮影されたのは、南スーダンだった。
1983年から、20年もの間続き、2005年にようやく包括的合意が締結された。
教育は行われず、内戦の影響で、人たちは逃げ惑い、上に苦しみ続けて、住民投票により、6年間の暫定期間を経て、2011年に南スーダンが誕生した*.
*参照
川原尚行:行くぞ!ロシナンテス 日本発 国際医療NGOの挑戦 山川出版社
朝起きる。
口に砂がじゃりじゃり入っている。
聞いた事のない「ぶおーぶおー」と、正体不明の鳥の鳴き声が聞こえる。
砂嵐がドン引きするぐらい、舞っているのが遠くに見える。
アフリカのスーダンの僻地で、野外に設置したベットから起きると、砂まみれの自分に気づく。
今日は、これまで来た7時間の道のりを、首都のハルツームまで引き返す事になっており、なんだか、気がちょっと重い。
まわりを見ると、川原さんはもう起きていて、携帯電話で何やら話をしていた。
体の砂を払って、スーダンの朝の定番である、甘い紅茶と、砂糖がかかった甘いドーナツを食べた。
朝から、こうやって、みんなで食卓を囲み、お話をするのが、スーダン流みたいだ。
日本にあって、スーダンにないものは、たくさんあるけれど、きっとスーダンにあって、日本では無くなりつつあるものも、同じ様にあるのだろう。
記念撮影をとった後、元気MAXな子供達に見送られながら車に、乗り込んだ。
エンジンがかかり、車が進んでいくと、どんどんと村が遠くなった。
帰りの車の中では、川原さんのご子息である健太郎くんと、その慶応大学ラクビー部の
先輩である銅治くんの、やたらハイテンションなノリに助けられながら、帰った。
デコボコの道をひた走ること4時間後、首都ハルツームに帰る前に、州保健大臣に会いにいくという。川原さんが、特産品である綿花を使って何かできないかと考えており、その顔合わせで州知事と会う様子だった。州官舎の入口では、門番が皆ライフルを抱えており、怖かった。粗相のない様に、ガチンコで注意しようと心に決めた。
現地のカメラクルーも入り、緊張しっぱなしで、1時間ほど川原さんと、州知事との会談をみんなで見守り、綿花の畑を見学させて頂いた後に、首都ハルツームに向けて再出発した。
車の中では、さすがに疲れたのか、元慶応大学ラクビー部の二人は、今度はスヤスヤと寝ていた。
その後3時間ほどして、 現在川原先生が支援している、地域の方に夕食のご招待を受けて、その地域で活動する保健ボランティアのご自宅にお邪魔させて頂いた。
保健ボランティアは、村から選出され、ワクチンの推進をしたり、結核の患者さんを見つけてきたりと、看護師さんや医師と同じ様に、地域の健康、特に母子の健康を守る意味でとても重要な存在だ。
ご自宅を訪れ、夕食のナンとカレーを頂いた後、タンブールというイスラム圏独特の弦楽器と、3つの太鼓を一つに縫ったドラムをつかって、即席のライブが行われた。
始めは、その音楽を座りながら聞いていたのだけれど、段々と川原先生や、息子さんが、その音楽に合わせて、動物の真似を展開し、スーダンの保健ボランティアの方やそのご家族、友人の爆笑をかっさらていく。
そのうちに照れていた、スーダン人も参加し、音楽に合わせて踊っていった。どんどんとその輪は大きくなり、騒ぎを聞きつけてた、ご近所の方も飛び入り参加し続けていく。
終いには、ご近所の老人のおじいちゃんが、ゼルダの聖剣にでてきそうな剣を振りかざしながら、踊りだした。
言葉も通じない中で、音楽やダンスは国境を越えたみたいだった
狂乱の宴は、二時間近く続いた。
みんな汗だくになりながら、変な一体感が生まれながら、川原先生が締めの挨拶をする事になった。
「皆さんと踊りながら、医療というものを考えました。私は、医療とは、歌い、踊り、笑うことだと、思いました。狭義の医療とは、診察し治療する事です。でも、広い意味で考えれば、戦争がない事も広義の医療、こうやって一緒に食事をとり、有効を深めて、この地域の健康を守っていくのも、広義の医療と感じる事ができました。今日はありがとうございました。」
汗だくの川原先生の話を聞いて、「戦争を失くす事も医療」という言葉が、頭に残った。
盛り上がった宴を終え、汗だくのまま、車に乗り込み、1時間ほどして、 NPOロシナンテスの事務所に着いた。
事務所につくと、全く電気がつかず、事務所全体が停電していた。
変なダンスでお腹が空いてしまった僕たちは、コンロでお湯を沸かして、屋上でカップ
ラーメンを食べる事にした。
屋上からは、砂嵐と街灯の明かりにつつまれたスーダンの首都ハルツームの幻想的な景色が見えた。
お腹が空いていたのもあり、お湯を注いでから、2分弱で食べたちょっと固めの日清のカップラーメンは大げさだけれど、今まで食べたカップラーメンの中で一番美味しかった。
たくさんのリスクがある中でなぜ、行動するのか?
「自分の仕事を通して、笑顔にしたい。」
中2病を超えて、もはや小3ぐらいの答えだったけれど、そんな事を、50才近くの川原先生が言うのだから、それが答えなんだろう。
そんな子供っぽい思いが実は一番大切なんだろう。
社会人になって、自分よりすごい人はいくらでも、いる事を知った。自分には特別な能力のない凡人だと知った。
思いがはじめにあって、手段があるはずなのに、段々と手段が目的化していった。
JPOを受けた方が良い、海外の大学院に行ってMPHをとった方が良い、TOEFLはOO点以上とった方が良い、推薦書は有名な先生に書いてもらった方が良い。
国際協力を仕事にする場合、そんな手段ばかりに目に向きがちになった。手段が目的化すると、それが上手にできる人を見ると、自分がダメな人間の様に思えて、行動する気持ちが失われていった。
自分のワクワクする事を、やりたい事をやる?
収入や、キャリアはどうするのか。才能や能力がない人間には、どうするのか、結局すごい人がすごい事をしているだけで、自分には成功する保証もない。
夢なんて、現実にはほとんど叶わない。自己啓発の本やCDを聞いて熱くなっても一週間たてば現実に嫌になって、諦めてしまう。
行動しない理由を、できない理由をたくさん並べられる様になった。
「自分の仕事を通して、人を笑顔にしたい」
それでも、そんな子供っぽい、綺麗事の様な思いこそが、力の無い自分でも、現実を変えていける唯一の強みなんだったはずなのに。
なぜ、その職業についたのか、その職業でどんな事をして、どんな人を笑顔にしたかったのか。そんな事の方がよっぽど大切で、手段は、きっと後からでも見つかる。
いつか、また迷った時は、憧れの人を思い出せばいいんだろう。その人の様に素晴らしい人間にはなれなくても、その人の生き方は自分にとって大切な事を教えてくれる。
スーダンの首都ハルツームで、、NPOロシナンテスの事務所屋上で食べたあの時の、カップラーメンは、なぜか、この世のものとは思えないほど、美味しかった。
きっと、忘れない様な気もした。
まとめ:人生に迷った時は、憧れの人を参考に。
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