戦争の後で。 2015年3月9日
戦争の後で。2015年3月9日
あつい、暑い、熱い。
これは、もはや自分が30年近くの人生の中で、経験してきた朝の温度ではない。
スーダンでは、昼間太陽に照りつけられた家の壁が熱を蓄えてしまうので、明け方になっても室内は軽く30度を超えてしまうらしい。
もはや、外で寝た方が、涼しくて風もあって気持ちいい。
よく考えたら、日本だって、昔はクーラーはなかったはずだ。修行が足りないみたいだ。
汗だくのまま、一階に降りて、NPOロシナンテスのスタッフの方と朝食を頂いた。
今日は、川原先生が、医療支援をされていたシェリフ・ハサバッラ村に行くことになっている。
シェリフ・ハサバッラ村までは片道7時間かかるそうで、午前5時に、首都ハルツームにあるNPOロシナンテスの事務所を出発した。
乗車メンバーは、川原先生と、ご子息の健太郎くんと、その先輩である銅治くん、小説家志望の片桐くん、ロシナンテスの事業の一環で日本の高校に留学していたフセイン君と、ロシナンテスのスタッフの方と、なかなかみんなの共通点が見いだせないけれど、それぞれキャラの濃いメンバーで向かっていた。
1時間ほどで、首都であるハルツームをでると、やはり景色は一変した。
近代的な建物は何もなく、見渡す限り、砂漠が広がっていった。
合計7時間、デコボコの道を車を走らせると、スーダンの東部にあるガダーレフ州のシェリフ・ハサバッラ村に到着した。
川原先生が書かれた「行くぞ!ロシナンテス」を参考にすると
人口は、およそ3000人。元々遊牧民であった部族が、30-40年前に、この地に定着し、ヤギ、ヒツジ、ラクダの牧畜と、雨季には換金作物のゴム等をつくっていたそうだった。
2007年2月、医療従事者がいなかったこの村で、州保健知事の要請を受けて、川原さんはこの村に寝泊りをして、一人で診療しながら、支援を開始した。
当時にも、井戸はあったが、パイプや貯水タンクの積年の汚れで、水質が悪く、故障する事もしばしばあり、川から直接、水をのむ村人が多かったそうだ。
川の水を利用する事によって、慢性の下痢症、感染症が引き起こされていた。
そこで、ロシナンテスは、井戸の支援を開始した。この時に、全部がこちらがタダで与えると依存型の支援になってしまうため、管理委員会をつくり、修理費などの徴収も住民主体で、建設をスタートした。
世界でみると、子供の全体の死者数は下がっているが、2015 年には、未だに推定590 万人の子どもたちの大半が、肺炎・下痢・マラリア等の容易にかつ安価で予防・治療できる疾病で5 歳になる前に命を失っている。(1)
綺麗な水は、どんな医療にも勝る。
そして、川から水をくんでくるのは、そのくんだ水を煮沸したり、料理に使うため薪を集める仕事は基本的に女の子の仕事でもある。
井戸をつくる事により、女の子が、教育を受けられる可能性も高くなる。
女の子が初等教育をうけると、将来その子供が5年間生き延びられる確率は40%以上も上がると言われる。(2)
綺麗な水は、健康問題も、教育問題の解決にもつながる。
支援を開始して、数年後もこうやって、住民主体で管理されているのは、やっぱり、素晴らしい事だ。
そして、母子保健事業も行った。
基本的に、スーダンでは出産する際、自宅でTBA(Traditional Birth Attendant)と呼ばれる医療教育を受けていない伝統的産婆が出産に立ち会うケースも多い。
スキルをもった助産師さん介助でない出産は、へその緒を、清潔でない竹の串で切断し臍帯炎(へその緒の炎症)を起こしたり、異常分娩を把握できなかったり、新生児死亡、妊産婦死亡につながると言われ、世界で出産した赤ちゃんの内、100万人が、出産当日に亡くなっている。(3)
それでも、教育を受けた助産師の介助のもと、適切な処置を施すなど基礎的な医療サービスがあれば、40%ほどの赤ちゃんの命を救えるとされている。(4)
それらは妊産婦を乗せたジャンボジェット機が、毎日2機墜落している計算になる。
妊婦検診や家族計画サービス、保健に関する医療人材の育成、緊急産科ケアへのアクセスの向上などがあれば、確実に救える命が未だに何万人もある。
ロシナンテスは妊婦検診、教育を受けた助産師の介助の出産を促進し、2012年にはこの村で妊産婦死亡ゼロを達成した。
また、優秀な助産師をこれからも育てるために、教育事業として、学校も設立した。
教育を受けることにより、所得の増加、貧困の減少、健康状態の改善につながる。
教育を受ければ、仕事を得やすくなる。 教育を受けることにより、子どもの栄養バランスや、病気を防ぐためのワクチンの摂取などに 意識が高くなる可能性もある。
質の高い教育には、世代を超えて繰り返される不公平性のサイクルを断ち切り、子どもたちの生活と彼らを取り巻く社会を改善する力がある。
小学校を見学すると、小学生がコーランを全力読んでいた。イスラムの教えのもと、女の子と男の子は別々に勉強している様だった。
その後、村を見学させて頂いていると、子供たちが集まってきて、もみくちゃにされた。
きっと、川原先生は、たくさん亡くなっていく命を見て、見過ごすことが嫌だったんだと思う。そして、それにやりがいを、感じて、色々な肩書きを捨てて、一人でこの村に乗り込み、何かできないのかと毎日毎日診療していたんだと思う。
東日本大震災でも、被災地に向かい支援を開始して、目の前で、何か困っている人がいれば、その人に寄り添い、何かできないかと今まで進んできたのだった。
子供たちと遊んだ後、村の近くを流れるナイル川を見にいった。
この川がどれだけこの土地を肥沃な土地にし、人々を豊かにしただろうと思うと、保健衛生的な観点から、いつも下痢や感染症を起こす、まるで悪いものの様な存在として時に考えてしまった自分は視点が非常に狭かった様な気がした。
その後、村長の家で、普段は食べられないという羊の肉を出してもらった。おいしかった半面、少し申し訳ない気持ちになりながら、食べた。
食事の後、室内は暑いからとの事で、みんなのベットで外に運んで、文字通り外で寝ることになった。
携帯をみると、海外様のwifiでも圏外だった。テロ支援国家に指定されているスーダンでは、Apple Storeでアプリがダウンロードできないらしかった。
みんなと、今日見た事を話しながら、やがて空は暗くなっていった。
日本から3日間かけて、たどり着いたスーダンの村では、街灯がなく、何も見えない暗闇が広がっていった。
上を向くと、ダイヤモンドを全体に散りばめた様な星空が広がっていた。
なんだか、十分な気もした。
生まれてから、戦争を経験した事はなかった。主義主張で、誰かに殺される事もなかった。水道をひねれば、いつも綺麗な水がでてきて、トイレがあった。
病気になった時は、近くに病院があって、緊急でも診てくれる医療者がいた。中学校まで行けるチャンスがあった。コンクリートの道路があった。急いでいる時には、高速道路を使えた。警察がいた。パソコンや携帯があった。
お腹が空いたら、松屋や吉牛があった。本を読みたければ、アマゾンで頼めば次の日に自宅に届いた。何かちょっとしたものに困ったら、コンビニがあった。
何より、生きている。
朝が来てくれる。
自分は今まで、そばにあった、当たり前であった幸せや奇跡を、どれだけ見過ごしてきたのだろう。そんな幸せがあるのに、どうして僕は行動に起こせないんだろう。
戦争がなくて最低限の衣食住があって、自分にとって本当に大切な事以外は、本当は捨てても良いんじゃないだろうか。実は、そっちの方が人生を豊かにしてくれるんじゃないだろうか。
星を見ながら
今日、シェリフ・ハサバッラ村に向かう道中で、川原先生がふとした時に言われた
「まずは自分のやれる事をやりなさい。その後、みんなの力が集まればすごい力になるから」
という言葉を思い出していた。
(1) UNICEF 世界児童白書 2016年
(2) THE WORLD BANK,“Girls’Education in the 21st Century : Gender Equality, Empowerment and Economic Growth”, 2009 )
(3) Lawn JE et al. Lancet 2005:365;891-900
(4) Pattinson R, Kerber K, Buchmann E, et al. Stillbirths: how can health systems deliver for mothers and babies? Lancet 2011; 377: 1610–23.
(5) WHO, UNICEF, UNFPA, World Bank Group and the United Nations Population Division : Trends in Maternal Mortality:1990 to 2015
まとめ:衣食住の最低限の生活ができれば、自分にとって、本当に大切なものに、
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