素人から出版しようとして、うまくいかなくて、自費出版して、5000部売れて、映画化になった話。part1
昨日は、タンザニアで色々な事を書いた。
命の話をするとちょっと、だいぶあれなので、閑話休題させてもらって
もうちょいライトなやつを書こうと思う。
もう10年ぐらい前の話だから、今の状況にあてはまるか、分からない、
今ならネットでバスる→出版の流れが多いのかもしれない。
2006年当時、医大の3年生、22歳(1浪しているのだ)だった僕は、カンボジアの小学校継続支援のために、本を書くことを、なぜか思いついた。
本など、書いたことある訳がない。国語の授業で点数が良かった訳でもない。
ただ、カンボジアの通訳のブティさんの話、ツールスレン虐殺博物館色々な小学校建設までの経緯を世の中に、人に伝えなきゃいけないと、壮大な勘違いをしてしまった。
(今も、その気はあるけれど・・・)
当時、22歳の僕は
「これだけ、世の中に本があるんだから、本をだすための本があるはずだ。」
なぜか無駄に確信して、新宿の大型書店にいった。
学生葉田「すみません、本を出版するための本を探しています。」
書店員さん「ちょっと探しますね・・・・」
・・・・・5分後
書店員さん「ちょっと、見当たらないですね。」
学生葉田「マジっすか?!。」
若気の至りというのは、恐ろしい。当時の僕は、書店員さんが知らなかったのだと(すみません・・・)と思い
ノートパソコンを使って、本をだすための本を探した。
1時間程度すると・・・・
あった!
https://www.amazon.co.jp/自分の企画を本にしよう-―出版社に採用される「企画書-サンプル原稿」はこうつくる-畑田-洋行/dp/4769608764
早速、本を注文し、何度もポストを確認するほど、その本が届くのを待った。
後日その本を熟読し、全く社会人経験のない、何なら多少常識も欠如もしていた当時の僕にとってはとても、有難かった。
「まずは、1~2枚で企画書をつくるのか」
ふむふむ。
「直接営業は嫌がられるのか」
「送り状、目次、サンプル原稿をつけた方がいいのか」
ふむふむ。
今思えば、突っ込み所満載だけれど、当時の僕は真剣に
本に書いてあるのに忠実に企画書等を書き
インターネットに記載されている出版社、30社ほどに送る準備を
授業の合間をぬって、1週間程度で、整えた。
本をだそうとしているなんて、恥ずかしくて、当時誰にも言えなかった。
企画書が入った出版社あての30ほどの封筒を、ポストの前でパンパンと手を叩いて、神頼みしてから投函した。
・・・・・2週間後
出版社、2社からメールでご連絡を頂いた。
飛び上がるほど、嬉しくて、この本に何度も感謝した。
https://www.amazon.co.jp/自分の企画を本にしよう-―出版社に採用される「企画書-サンプル原稿」はこうつくる-畑田-洋行/dp/4769608764
ちなみに、この著者と何ら関係ありません。でも、僕は今でも感謝しています。
後日ヨレヨレのスーツを着て、吐きそうになるほど、緊張しながら、生まれて初めての出版社を訪れて
「とりあえず、書いてみてよ」と
と当時の編集長から、お声がけを頂いた。
意気揚々と、原稿に取り掛かったものの、楽しくできたのは、ここまでだった。
書いても書いても、編集長からOKがもらえない。
「葉田くん、これ文章じゃないよ、ただのメモ、ポエムだよ。」
「こんなの売り物にならない。」
「もう一回書いてみて×20」
ひと様からお金を頂くこと、作品を世の中に発信する事、そんな事を教えてもらいながら、1年がすぎ、僕は大学4年生になっていた。
原稿に行き詰まり、当時住んでいた、千駄木の駅前にある二階の居酒屋に編集長に飲みに連れて行ってもらった。
僕はその方に、教えてもらった金言を未だに大事に思っていて、それを守れているか分からないけれど、今でも守ろうとしている。
「葉田くん、基本的には物語には、起承転結があって、それぞれに中にも起承転結があるんだよ。」
「人によっては、隠したい事、言いたくない事を、本当の心の底の気持ちを、人は読みたいんだよ。」
結局、1年半たっても、「僕らがカンボジアに小学校を建てた理由」という原稿は完成しなかった。
大学が終わった後、誰にも言えず、一人で書いていた日々が今では懐かしい。
「この原稿じゃ厳しい、出版はなかった事にしよう。」
そんな事を結局、その半年後に通達された。
今ではその編集長に対して感謝しかない。
1年半近く毎日毎日書いた原稿、出版がボツになった。
どうせなら、「僕たちがカンボジアに小学校を建てた理由」という書いた原稿を、自費出版しようと、自費出版の会社にもっていった。
話をもっていった自費出版の会社が、後に詐欺会社で訴えられて倒産した会社だった。
「葉田さんの文章すごいですね、センスの塊ですね、めちゃくちゃ原稿も感動しました!」
「つきましては、200万円を今週までに・・・・・」
人間落ち込んでいる時に、甘い言葉をかけられると、そちらに行ってしまいそうになる時がある。
詐欺の会社に騙されそうになった事もあった。
次に幻冬舎の自費出版の会社にいった、当時はたしか300万円程度費用でかかった。
自費出版で、こちらがお金を払うけれど、
「出版ってのはね・・・」
「君の原稿はね・・・・」
「大体ボランティアや国際協力の本が売れる訳ないんだよ・・・・」
話を聞きにいったはずが、1時間程度説教されて帰って、帰り道で悔し涙を流した。
300万円なんて、大金を払えるはずがなかった。
もうこれで、ダメだったら、辞めよう・・・
最後に、パレートという新しい自費出版の会社が見つかった。
元々、デザインの会社が母体となっているその会社の事務所は、当時東京駅のマンションの一室にあった。
それまでで訪れた、自費出版の会社で、最も小さいオフィスだった。
下牧さんという、可愛くてきれいな女性にご対応頂いた。
言語化するのは、難しいけれど、下牧さんが良い人だった。
自費出版するなら、この会社でだしたい。
そう思ったけれど、3000冊で当時120万円の印刷費がかかるといわれた。
自費出版の会社では当時、最安に近い料金だった。
120万円
その金額にビビりながら、帰宅した。
家に帰り、もう諦めようと思った。2年弱毎日毎日、頑張っても一向に結果はでない。
詐欺の会社につかまりそうになるし、延々と説教されるし、本が3000冊も売れる根拠も全くない。
当時、一緒に活動していた、サークルの友達の直子という女の子に伝えた。
「色々、2年間近く自分なりに、頑張ったんだけど、無理だった。出版は諦めます。」
近しい人に、本を出版するといっていた僕は、オオカミ少年の様になっていた。
2年間近く、本を出版すると言い続けて、結局出版できなかった。
恰好悪かった。そばで応援してくれた、その女の子に素直に謝った。
そうすると、全く予想しなかった反応が返ってきた。
「私は、私みたいに悩んでいる人のためにも、葉田さんの本を世の中にだしたい。」
と涙を流しながら、言った。
ものすごく狭い、かつ昔話で恐縮だけれど、当時MIXIが流行っていた。僕の日記には、いつも高橋直子の、足あとがあって、僕の文章になぜかいつも元気をもらっていたという事だった。
本当に涙を流して泣くのに、驚きつつ、その時に半分ヤケクソになりながら、覚悟が決まった。
「誰に何を思われても良いから、ただこの人のためだけに、本を書いてみよう。」
2年弱かけて書いた「僕たちがカンボジアに小学校を建てた理由」という原稿をパソコンから消去した。
くるりのロックンロールと、サンボマスターの美しき人間の日々と、銀杏BOYZの東京と、weezerを爆音で聞きながら、一から書き直して1日で書いた。
他の人にどう思われても良いから、国際協力やっている人にキレられるだろうなと思いながら、もはやそんなのどうでも良いと思って、一人の色々悩んでいる20歳の女の子に向けて、書いた。
題名は大好きな銀杏BOYZの曲から拝借して「僕たちは世界を変えることができない。」とつけた。
20代前半の将来への希望と不安が混ざった、もう二度と書けない、心の叫びみたいな、なんとも言えない原稿を書いた。
2008年3月、120万円ローンを組んで、「僕たちは世界を変えることができない」を
3000冊自費出版した。
この時、将来5000部売れる事も、映画化になる事も、自宅のアパートで全く想像できていなかった。
もうすぐ僕は大学5年生になろうとしていた。
あの時泣いてくれた人がいなければ、本も、映画も、色々な人との出会いも、すべてなかったんだと思う。
向井理さん推薦!
~献身(ボランティア)とは何か
愚直に自分と向き合う医師の現在進行形の物語~
映画化以降の8年間の苦悩、悔しさ、涙、仲間の大切さ、出会い、自分の幸せ、収入やキャリア、夢や目標の叶え方、なぜ僕たちは働いているのか?色々なものを詰め込みました。
NPO法人あおぞらを通じて、印税をタンザニア新病院プロジェクト、ラオスの新生児蘇生法講習会、カンボジアのサンブール保健センター継続支援、グラフィス小学校栄養指導、検診活動等に使わせていただきます。