セカイの果ての物語。

 医師 『僕たちは世界を変えることができない。』   スーダン→ラオス→カンボジア→地域医療→長崎熱帯医学→離島医療→カンボジア病院建設

【スーダン国際医療⑤】 カップラーメンとスーダンの夜空。 

口に砂が入っている。

 

鳥の鳴き声が聞こえる。

 

風の音が聞こえる。

 

 

 

目が覚める。

 

 

 

 

アフリカのスーダンの僻地で、文字通り外で、起きる。

砂まみれの自分に気づく。

今日は、これまで来た7時間の道のりを、引き返す事になっており、なんだか、気がちょっと重い。

 

 

まわりを見ると、川原さんはもう起きていて、携帯電話で何やら話をしていた。

外で寝るのが、もう慣れている様子だった。

 

 

体の砂を払って、スーダンの朝の定番である、甘い紅茶と、砂糖がかかった甘いドーナツを食べる。

 

朝から、こうやって、みんなで食卓を囲み、お話をするのが、スーダン流だ。

日本にあって、スーダンにないものは、たくさんあるけれど、きっとスーダンにあって、日本では無くなりつつものもある。

 

 

 

 

 

 

記念撮影をとった後、元気MAXな子供達に見送られながら車に、乗り込んだ。

 

 

 

エンジンがかかり、車が進んでいくと、どんどんと村が遠くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

帰りの車の中では、川原さんのご子息である健太郎くんと、その慶応大学ラクビー部の先輩である銅治くんの、やたらハイテンションなノリに助けられながら、帰った。

 

 

 

 

4時間後、首都ハルツームに帰る前に、州知事に会いにいくという。

 

 

川原さんが、特産品である綿花を使って何かできないかと考えており、州知事と会う様子だった。

 

 

州知事のいる建物にはいる時に、皆ライフルをぶら下げており、怖かった。

粗相のない様に、注意しようと心に決めた。

現地のカメラクルーも入り、緊張しっぱなしで、1時間ほど川原さんと、州知事との会談をみんなで見守り、首都ハルツームに向けて再出発した。

 

 

 

 

 

 

車の中では、さすがに疲れたのか、元慶応大学ラクビー部の二人は、今度はスヤスヤと寝ていた。

 

 

 

 

水事業、教育事業、母子保健事業を見学し、シェリフ・ハサバッラ村の子どもたちや村民と交流し、たくさん勉強になったけれど

一番印象的だったのは、川原さんの笑顔だった。

川原さんは50歳近いのだけれど、その笑顔は子供の様だった。

人の笑顔に貢献し、それを見て幸せそうに笑った笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後3時間ほどして、 首都ハルツームに入ったが、渋滞がすさまじく、結局シェリフ・ハサバッラから10時ほどして、ロシナンテスの事務所に着いた。

 

 

 

 

 

事務所につくと、全く電気がつかず、事務所全体が停電していた。

夜ご飯を食べていなかった僕たちは、コンロでお湯を沸かして、屋上でカップラーメンを食べた。

 

 

 

 

 

屋上からは、スーダンの幻想的な夜景がうつしだされていた。

 

 

 

 

 

 

 

星空がみえた。 

 

 

 

 

 

お腹が空いていたのもあり、カップラーメンがこの世のものとは思えないほど、美味しかった。 

 

 

 

 

 

なんだか、十分な気がした。

 

 

どれだけ、お金を稼ごうと、

僕の胃袋では1日3食しか食べられない。

洋服は、1日1着しか着ない。

車も1台しか運転できない。

どれだけお金をためようと

来世には持っていけない。

どれだけのキャリアを積んでも

それが人の役に立っていなければ意味がない。 

 

学生が終わり、社会人になり、僕は、いつしか目標が変わっていた。

 

キャリアや収入のことも考える様になった。

 

 

 

 

小学生の頃は、サッカーばっかりして、遊び回っていた。

 

なんで、あんなに、楽しかったのだろう?

 

あの頃、自分は、どんな未来を思い描いてたっけ。。

 

 

 

いつしか、目標が変わっていた。

 

それは結局ところ、周囲の評価を気にしての事だった。

 

 

 

もっとお金を稼いで

もっと、いいキャリアを歩んで

もっと大きな家に住んで、

もっと良い車に乗って

もっと、新しい電化製品をかって

もっと、買って、もっと偉くなって

 

 

それらに比例して、自分は幸せになるのだろうか。

本当にやりたい事は、もう知ってるはずなのに、どうして、僕は、時に人に合わせたり、自分の夢を曲げたりしてしまうのだろう。

 

一体、誰に負けない様にしてきたんだろう。

 

 

 

 

 

 

屋根のある家に住むことができて、

寝具をもっている

清潔な水が飲める

衛生的なトイレがある

少なくとも中学校まで学校に通えて

収穫期以外も、食べ物に困らなかった。

 

エゴのために、もっともっとと物を所有すること

が人生の目的だろうか。

 

 

 

 

 

夢だけでは、食べていけない。

やりたい事をやるのは、難しい。

 

 

 

 

 

でも、僕が生まれた時に、

生まれた場所では戦争がなく、誰かに殺される恐れもなく

教育を受けることができ

病気になった時には、まわりには病院があって、看護師さんやお医者さんがいて

職業選択の自由、思想の自由があった。

 

 

 

本当は十分じゃないかと思った。

 

いつか自分も必ず亡くなってしまうのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川原先生は、よく笑っていた。

 

 

それは、人を笑顔にして、それが嬉しいがための、笑顔だった。

 

 

衣食住が確保できれば、それらはキャリアや収入の何倍も価値がある様に思えた。

 

 

 

 

 

川原先生は、「川原先生じゃなく川原さんと呼んでくれ」とスーダンに着いた時、僕にいった。

 

それは、きっと、色々な問題があるスーダンの中で、一人の医師として行動しているというよりは、一人の人間として行動しているからなのかもしれない。

 

 

 

 

だけど、僕は、やっぱり川原先生と呼んでしまう。

それは慣習じゃなく、大切な事を教えてくれた先輩として、やっぱり、これからも

尊敬をこめて、そう呼んでしまうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

本当に、この時のカップラーメンは美味しかったんだ。

 

 

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